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まちの歴史

赤坂地域のまちの歴史は様々の出版書、講演、団体行事などで語られています。
​このページでは、特に当町会に関係の深い事柄を縷々綴ってみたいと思っています。

参考文献等:新修港区史 (昭和54年版)
      文政のまちのようす 江戸町方書上(四)赤坂編(平成8年)
      赤坂街歩きの会 セミナー資料(講師 滝口正哉先生)
              及び各街歩き資料(日野氏)
      赤坂氷川神社の歴史と文化(滝口正哉編)
      檜通史(1890~1990)(開校・開園百周年記念誌)
                (港区立檜町小学校・中ノ町幼稚園)

昭和時代(戦前・戦後)
 
​ 赤坂区の70%は空襲被害

 1947年(昭和22年)港区立桧町小学校 
 1946年(昭和21年)東京都桧町国民学校 
 1943年(昭和18年)東京都乃木国民学校 改名
 1942年(昭和17年)東京市乃木国民学校 改名 
 1941年(昭和16年)東京都中之町国民学校 改名 
 1933年(昭和8年)中之町小学校の鉄筋新校舎竣工

 昭和恐慌・軍事態勢ㇸの移行
 
 1940年(昭和15年)内務省令で町内会・隣組制度整備
  (赤坂新町五丁目町会も存在)
 1926年(昭和11年)2.26事件の舞台となる
   (近衛歩兵第三連隊・歩兵第一連隊・歩兵第3連隊など)
   (幸楽・山王ホテル・総理官邸・高橋是清邸など)
 1922年(昭和7年) 赤坂の町会数は42
 
大正時代:
 赤坂花街と相まって、ちょっとした商店街形成
 スペイン風邪(大正7~11年)関東大震災(大正12年)後に町会設立が増える。
 赤坂に、オペラ館・演劇館などが栄えた(赤坂ローヤル館・演技館・
 赤坂葵館・赤坂能楽堂など)

明治時代:
 1909年(明治44年)中之町尋常高等小学校、桧町14,15番地に木造新校舎落成
 1894年(明治27年)赤坂区中之町尋常高等小学校として独立
 1889年(明治22年)赤坂小学校中之町分校設立、翌年開校式(赤坂区中之町8)
 
 1878年(明治11年)赤坂区誕生、麻布区とともに兵営集中

江戸時代:
 1825年(文政8年)新町五丁目は、名主(下名主)は須原善三郎が務める
  旗本・御家人・町方居住者が混在
  町内家数156軒(家主17,地借11,店借108、明店20)

 1688~1704年(元禄年間)「新町五丁目」のまちが成立
     
 1657年 明暦3年 明暦の大火後、赤坂に徐々に武家屋敷があらわれる。
 大名・旗本・御家人の屋敷替え、下屋敷の拝領、寺社の移転加速

 寛永15年頃 赤坂見附以外の土地を、南伝馬町の高野新右衛門・
 小宮善右衛門・吉沢主水が、島原の乱後褒賞として土地拝領

 1636年(寛永13年)江戸城総構えの完成、赤坂門外堀完成
 1606~7年(慶長12年12年)江戸城天守閣完成
 1590年(天正18年)徳川家康入国、伊賀同心一部に上下一ツ木村に給地

戦国時代:
 赤坂は武蔵野国豊島郡貝塚領(赤坂庄)一継村と称して、古来より奥州街道
 沿いの人馬継ぎ立ての地、上下一ツ木村に分かれていた。

 1524年 北条氏綱(戦国大名、北条早雲の子)入城
 1456年 扇谷上杉家老 太田資清の子 太田資長(道灌)、
  江戸平川に江戸城造営

室町時代:
 江戸氏、豊島氏などの武蔵武士、足利につく

鎌倉時代:
  江戸重長(江戸氏の名前の最初の記述)(桓武平氏の秩父流の一族)
  (「吾妻鏡」「畠山系図」など)
平安時代:
 「あしの丸屋」の散在(麻布台一丁目竪穴式住居)(「将門記」など)
​  荒川上流・多摩川流域に「武蔵七党」(横山・児玉・猪俣・丹・野与・村山・西)
  (「太平記」)
奈良時代:
  赤坂は「武蔵野国荏原郡桜田郷」の一部か。
  (「日本書紀」「古事記」「延喜式」など)
律令時代:
 「坂東」「山東」と呼ばれる
  (「令義解」など)
古墳時代:
 「あずまのくに」(我姫、吾嬬、吾妻、東」と呼ばれる一部
 (「常陸の国風土記」や「増上寺丸山古墳」など)
弥生時代:
 港区の地形の関係か、比較的遺跡がすくない。

縄文時代:
「一ツ木貝塚」など居住・生活を営んだ証左がある

旧石器時代:
 隣接「檜町公園・ミッドタウン」に約3万年まえの旧石器時代の遺跡発見
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